心を失くす便利さ2
昨日は近くの東本願寺へお彼岸のお参りに行って来ました。
浄土真宗の本堂の作りは全国どこのお寺も一緒で実家のことが強く思い出された。
お彼岸にふさわしい暖かな春日和で家族連れが目だったのも何故か嬉しかった。
近くの花やさんで仏壇のお花を求めに・・・
今頃の店内は春の香りと春の色合いになぜか心が躍る思いにかられます。春ですね~
本堂で読経が終わるまで手を合わせる中、改めて人の心の大切さがふつふつと溢れ出てくるのが分かる。
それは、先日「心を失くす便利さ」に触れたところ、多くの反響がありあまりにも驚いたからだ。
若者からは反論にも似たメールが届きましたが、賛否両論でそれぞれの心(考え方)が分かって嬉しかった。
先日も述べたように、私がこのネット社会を危惧しているのは事実で、便利な情報収集機材に振り回されている現状をもっともっと整理し考え直さなければいけないと思っているのは確か!
知っての通り、最近では、想像もつかない精神状態で事件事故が起きているが、これこそは便利になった情報収集のなにものでもないと思っている。
勿論、インターネットを利用する手段(機材)は使いようによっては実に素晴しいものであることは何も反論する余地はない。 むしろ、ネットを利用し今の事業に関わっていることは逆に歓迎もし喜んでもいる。
私が危惧するのは、その使い方利用の仕方による。
気違いに刃物とまでは言わないが、心ない者がただ便利さだけでこれを前面に生活(しごと)することは必ず世の中、いや日本の崩壊につながるような気がしてならないことを心配しているのだ。
私がネットを利用もせずにこのような話しをするのであればまた違うのかも知れないが、便利さは十分知った上で警鐘にも似た気持ちでいるということだ。
例えば「挨拶」をひとつとってもそうだと言える。特にメールでのやり取りなどこの便利さは目を見張るものがあるが、このメールのやりとりでの文章(会話)はあまりにもひどすぎる。
例えば、「おはよう」を「オハ!」と打つ。 事例は数えきれないが、これが普通に目の前に相手が居ても「オハ」となっている。
私もメールなどはおそらく人の何倍も何倍も使っている方だと思うが、文面に心を入れて送ることは十分できると信じ使用利用を続けている。
このメールの交信がこのように全て普段の会話でも同じ感覚になったらどうだろう!?
考えることをせず、いとも簡単にスマホ等でことを済ませてしまう。
使いようによっては勿論あった方が便利ということは認める。 しかし、会社でも道路でも、レストランでも、旅行に行ってまでも・・・、毎日の通勤途中の車内でも3人に1人は見たりゲームしたり様々だ。
その様子利用度の頻度は尋常ではない。
当教室のお弟子さんがスマホを普通の携帯に替えたときの話だ。 「スマホを持っていると何故かついついパッと手軽に見てしまう。確かに車内でもどこでも・・・・! よく考えると自身の心の時間を全て奪われているように思う」・・・・と。 時間がもったいないのでスマホを辞めました・・・と。
若者がそう言っているのだ!!
昨今起きている殺人事件等も、いとも簡単に呼び出せる等々!
普通でさえ心が希薄になっている中でこの手段では世の中がおかしくならない方がおかしい!!
また、インターネットを通しての商売は信じられないほど進化し続けているが、私にはそれらが日本をあるいは世界を駄目にしてしまう道具になっていないかと思えてならない。
少し勉強すれば、少し得意でさえあればネットを駆使して商売をすることくらい実に簡単な世の中になったと思う。
勿論、正しい使い方でしっかりやっている人も多い。 これらを駆使(りよう)して営業成績を上げることも大切なことだ。
しかし、本物を知らない若者が、「こうすれば商売が上手くいきますよ!」・・・と指導めいた発言をしてくる。
日本人特有の「丹精」という言葉など毛頭その意味さえ知らないだろうが、丹精こめた製品に心をこめてお客様にお勧めするという世界は日本の財産のようなものだ。
何故日本が素晴らしいか!! 日本の文化や伝統は心があってこそのものだということを飛び越えてその伝統文化を便利さだけを武器にまとめあげようとしている。
確かに、ネットを駆使すればこの日本の良さをくまなく世界に発信し、知らしめることは可能だ。
でも、外国人や多くのお客様にお見せし体験し楽しんで頂く根底は決して変えてはならない筈なのだ。
特に、日本の文化や伝統などというものは便利さを駆使するメカでなどどうなるものでもない。
日本の伝統や文化には、それは言葉では語りつくせない心というものがあってこそ積み上げられてきたものばかり。
その深みを知らずして「お手伝いします」などと称しネットを利用し商売をすることにも危惧している。
伝統や文化を理解していて利用して欲しいということです。
私は、おかげで20歳代から接客の重要性を徹底的にたたかれて育ち、子供の頃は寺の息子として育ったせいか、挨拶や思いやり等の心は自然と身に着けていけたと感謝している。
今、教室での踊りにしろ歌にしろ、お芝居にしろ、心で動け(表現)と教えているが、特に若者の演技には深みなるものが感じられないことに気づく。 これはその子が悪いのではなく、その子を取り巻く環境、つまり家族だったり学校だったり等々その影響力の恐ろしさに心配は絶えないでいるのだ。
美しくなりたい!女性らしくなりたい!・・と通う若者の心には頭が下がるし称賛さえする。
最近のテレビの時代劇などを見ていても悲しいかなつくづくそう思う。
それは、お芝居特有の色気が感じられないのだ。 深みのない演技に今の若者は慣らされていると言ってもいい。
報道する側も「報道の自由」という名のもとで全て発信することの是非をどこかでしっかり歯止めをかけなければいけないのではないかとさえ思うことがある。
話しは変わるが、つい先日「サリン事件から20年」がどのテレビ局でも大々的に放送されていましたね!
中でも驚いたのがサリン事件発生の1週間ほど前に、ある新聞社が出した「上九一色村にてサリン製造」のニュースだった。
警視庁が極秘裏に進めていた捜査にこの報道が流れたことで、サリン散布の時期が早まったとされている。
これはある意味報道機関の問題でもあるんじゃないかとさえ思う。
報道という影響の大きさは本当に怖いという一例だろうが、さらに最近のネットにはびこる事件事故は目を覆いたくなるできごとばかりだ。
これらを駆使(りよう)して営業成績を上げることも大切なことだ。
そんなに簡単に商売がうまくいくのであれば自分でやればいい。 しかしそれは出来ないのだ。
つまり、人のふんどしで相撲を取るの例えがあるように自分が作り上げたものでないとやはり価値はない。
上手くいっている会社を「もっと良くなりますよ・…」と来るから恐れ入る!
それだけなら良いが、簡単にネットを利用できる今の世は怖いほどに心を奪っている現実のオンパレードだ。
それが、事件や事故につながり人の心をむしばんでいる。
悲しいことに、そうしたことに気づいていない若者が多いから困る。
性格が悪かろうがどうであろうがネットなら簡単に出会うことも利用することも出来る。
そこが一番怖いかもしれませんね。
私も仕事はメールを通して仕事をすることが多いが、初めて仕事でメールを見たくないと思ったことがあった。
つまり、心が通わないから見たいと思わなかったのだ。
すると、私のことを「メールを見るのが苦手なようですから・・・」と言った人がいたが滑稽でならなかった。
メールの内容を見ない訳がない!! しかし、もう放棄してしまっていたのだ。
いくらネット社会でも、心を大切にし心通い合う道具にネットを使わないと世の中人間不在になってしまう。
簡単にメール交信やネットでの検索の中で日々歩いているようだが、正しい使い方をしないと本当に大変な世の中になってしまうことを決して忘れてはいけないと思う。
使用しているときの便利さはおそらく私が何を言っても駄目でしょう!
使うなと言ってもつい開いてしまう! 小さな画面をずっと見て何かを得ているのかも知れない。
しかし、その時間、大切な心をその分失っていることを忘れないでほしい。
便利さには必ずしっぺ返しがあると思って間違いない・・・・。
人間らしく、若者らしく、学生らしく、男らしく、女らしく等々はもっと他にあるのだから・・・!!
特に日本人は素晴らしい国民です。 少しずつその素晴らしさを崩壊させているのは便利さに酔っている人だということを忘れて欲しくないですね。
本堂でずっとずっとそう考えながら、尚自らの心の在り方を問う時間になった。
(お彼岸に)