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 日本を学ぶ子供たち

チャイナ1

記録更新続きの酷暑の中、中国から可愛い小学校の女の子たち(9名)がやって来ました。

見ての通りこの子たちが居るだけでお稽古場は花が咲いたようです。
この子たちは中国ではバレーを習っているメンバーんまんだそうです。

初めての着物(ゆかた)に緊張し、いよいよ3日間の特訓がスタート。
どれもこれも初めての体験。 まして正座などまったく経験の無い子供たち。
スタートからびっくりしたようです。  この緊張感がたまらなく良いですね。

     チャイナ2

それでは自由な態勢で先生のお話を聞きましょう・・・と言った途端の写真です(笑)
まさに、日本の文化を体験するってこういうことですね!!

びっくりしたことは今回の目的です。
普通、外国から来た観光客の皆さんの体験は95%は1時間の体験ですから、極端な言い方をすれば
着物を着て、一通り簡単なレッスンを体験するだけなんです。

今回のそれ(目的)は3日間で約10時間みっちりとお稽古をし、ひとつの作品を仕上げることにありま
す。
そこで、日本の代表的な古謡から「さくらさくら」を選びお稽古はスタートしました。

この作品は8歳くらいな今回の子供たちが群舞で踊ったら最高ですね。
素晴らしい桜の花が咲くだろうな・・・・と私たちも楽しみのひとつでした。

つまり、今回は日本舞踊を習得することが最大の目的で来日した訳です。 責任を感じました。
とは言っても子供たちは至って無邪気でしたけどね。

緊張感は日本に来たというだけで伝わります。
ひとつひとつ分かりやすい波島の説明も難しい(内容)ことばかりにお稽古に入るとあくびの連発(笑)
でも、そんな姿にホッとするのも本音です。

かと言って、先方(先生)の目的もあるのでとにかく仕上げないと・・・・。

チャイナ3

経験したことの無い足の運びなどを紙に書いて説明するとこうなります。
それでも覚えようとする姿勢が伝わってくるから救われます。

今回の日本訪問の90%が日本舞踊のお稽古。
観光は休憩程度だっていうから波島は本当に指導者冥利に尽きますね。

お稽古場を開校して約10年が過ぎようとしていますが、努力の積み重ねの重みみたいなものを感じ
ます。
かと言って、これを商売で・・・とはなかなかならないんですね。 つまり、指導する側にそれだけの
指導力が無ければ成り立たない訳だから・・・・。

昨年、日舞や殺陣の指導環境(教室)を視察にと京都・大阪の道場に行って来ました。
簡単に言うとその殆どが観光客、特に外国人相手の「商売」としてやっている所ばかりでした。

着物を着ればそれらしくは見えます。 刀を持てばサムライに見えます。
しかし、日本人の私が見て、それは実に情けないものでした。
にわかに金を払っているんですからね。 でも仕方ないのかも知れません。
着物の、剣の、時代劇の、つまり本来の歴史にみるなんとも美しいしぐさや振る舞いを見ることのない
そうしたイベント会場。
日本のそうした着物の伝統や文化が廃れゆくのも悲しいかなその継承は実に厳しい現実でした。

なぜ、着物を着て正座するのか!? なぜ畳のへりを踏んではいけないのか!?
多くの疑問を「なるほど・・・」と解説できる道場があったら素敵だな・・・・って思いながらこの10年を
過ごして来ました。

日本の文化の素晴らしさ。 まさにそれは日本人の心の持ち方にあるんですね。

多くのみなさんがよく波島陽子を評価し褒めてくれます。
私はいつもそばに居てその理由をはっきり見続けてきました。
まぎれもなくそれは師匠波島陽子の心にありました。

よく、波島の振り付けた作品が素晴らしいと褒めてくださいますが、日舞を踊った経験のある人なら
文句なしにみなさん納得の領域です。

どんな有名な流派であっても指導者はみな人間です。 国会議員が全て立派かと言えば特に平成に
入ってからの議員は情けない人物が多く、残念で仕方ありません。

だから、諸外国から波島教室に来るみなさんは幸せだな! ラッキーだな・・・・って確信をもって言え
ますね。

3日間しかないお稽古時間ですが、それでも一番長いお稽古だと思います。
それは、中国に帰り、多くの皆さんの前dふぇ披露したらそれは証明されるはずです。

中国の引率者(先生)も従ってお稽古中は本当に真剣勝負の様相が伝わって来ます。
日本の踊りを学ばせよう・・・と計画して下さったみなさんに心から敬意を表したいと思います。

こんな話を日本の総理大臣が知ったらさぞ喜ぶことでしょう。
とにかく、素晴らしい作品に仕上げて差し上げたいの一心です。

チャイナ4

一生懸命取り組んだ成果は必ず花開くと信じています。

いろんな角度から世界の人たちと触れ合える私どもも幸せ者です。

浅草という立地、そして何よりも日本の心を大切に表現してくれる波島陽子が頑張っているから、その
心、きっと外国のみなさんに伝わることでしょう。






  芸術です、日本の心は

デンマーク

月日の流れの速さに改めて驚かされますね。

台東区立の中学校(7校)から選ばれた学生17名が毎年「国際理解重点教育」の一貫として現地(デン
マーク)に行って日本舞踊を披露したいので・・・と指導を依頼され今年で10年となりました。

10年、本当に感慨無量とはこのことです。
10年、私もこの事業に関わって強く思うことがハッキリして来ました。
この教育の一貫として求められるもの。 一番最初に日本舞踊を採り入れようと計画された団長(校長)
さんがたまたま私の故郷の小学校の後輩だったのです。
縁と言うものはどこでどんな形で現れるか分からないものですね。

当時の団長の情熱はそれは素晴らしいものでした。
この熱い気持ちの中にいる子供たちは幸せだ・・・と正直つくづく感じたものです。
今でも懐かしく思い出される「花笠音頭」。 赤い襷にスゲの笠。

ところがこの指導には大きな問題がありました。 それは指導時間です。
学校側の予定がいろいろあるにせよ、合計5時間で踊りを仕上げることと浴衣の着付け(たたみ方)
まで完成させるのは本当に至難な業でした。
ひとつだけ嬉しかったことは、やはり応募者の中から選ばれただけのことはあるな・・・という学生が
多かったことでしょうか!?
それでも、毎年毎年よくここまで仕上げたものだ・・・と指導者(波島)には頭が上がりません。

私は、指導者が指導しやすい環境を整えることに専念して今まで来ました。
厳しいようですが、それは心の問題ただひとつだったのです。
「挨拶の徹底」、「伝えることの大切さ」、「感謝できる心」、交流に欠かせない「笑顔の大切さ」を毎年
教えて私も同じように今年10年を迎えました。

10年は、教室を開校してやや同じ年月になりますが、考えてみたらこのデンマークの指導の年月と
同じに教室も歩いて来たんだなと思います。

彼らは台東区を代表し、日本の伝統や文化をデンマークの同い年の友だちに伝えに行く訳です。
子供たちどころか、引率の先生も浴衣を自分で着るなどという機会は一度もなく、何もかもが新鮮その
もの。  そうした点ではお稽古会場はとても新鮮です。

前述のように、日本の文化や伝統と申し上げましたが、私はこの10年の間に逆に悟ったことがあります。
それは、日本の素晴らしさ(文化)とは一体何だろう・・・ということです。

浅草で振袖を着せて外国人観光客に「着物を着て浅草を歩こう」・・・の企画を当社が初めて開業。
この企画は大当たりで多くの旅行会社からその依頼を受けました。
それが、今では年間2,000名もの来場につながっているんですから凄いとしか言いようがありません。

デンマーク指導でも、観光客の対応にしてもなかなか商売では出来ない領域に出会うことが出来た我々
は本当に冥利に尽きますね。

それは日本舞踊の素晴らしさの伝承についてです。
日本舞踊を指導するお稽古場や教室は全国にたくさんあるでしょう。
しかし、何の仕事(商売)でもそうですが、他との違い、つまり独自性です。 ここに気づくまで2年かかり
ました。 勿論、やっていることはスタートと変わりはありませんが、整理がついたというか確信を得たと
言った方が正解です。

つまり、日本の伝統や文化というのは「芸術」だということです。
多くの皆さんが会得しようと学んでいるのはつまり「技術」です。 日本舞踊もまったくその通りです。
私も芸事が好きで芸に対しては小学校に通い始めるころからその環境に居たように思います。

時代がそうだったこともあるかもしれません。
親戚が東映映画封切館をやっていたこと。 母親の着物姿以外に記憶がないほど、母はずっと着物姿
であったこと。 もっと言えば母は和裁を内職とし、多くの芸者衆の着物を縫っていたこと。
きっとこんな環境に居た子供も少なかったのではないだろうか!?
従って、時代劇のしぐさや振る舞い、その美しさは誰よりも熟知していた筈です。
時代劇に着物は当然。 挙句の果て歴史が大好きときては本当鬼に金棒でした。

最終的に「波島陽子」に出会うのもなるべくして成った極当たり前の人生だったのかも知れません。
先ほど、「芸術」と言いました。  そうなんです。日本人の素晴らしさはこの「芸術」にあると言えます。

日舞でも、華道でも、芸術の域に到達して初めて伝統を継承したと言えます。
全国にある日本舞踊の各流派に通う生徒さんやお弟子さんは何を学んでいるのか!?
それはまぎれもなく「技術」の習得なんですね。
日大のアメフト部に大きな社会問題が起きましたが、これこそが「技術」だけを追い求める指導者側の
欠陥でしょう。

私もいろんな指導者を知っています。
ジャンルこそ違え、多種多様の大先輩に出会うことも少なくありませんでした。

母親の影響でほんの少しだけ花柳先生に日舞を教わったこともありました。
そんなこんなの環境の中で、確信をもって言えることが見えて来たのが「芸術」と言う領域です。

販売店での経験で得たのが「心の応対」でした。
そのことが経営陣に伝わったのか私は指導者の領域に顔を出すことになったのです。
一体、私は何を従業員に教えたのでしょうか!?
キザと思われるかも知れませんが、それは「相手を思いやる心」それだけでした。
相手とは、時にはお客様でした。 相手とは当然仲間でした。
だからなんでしょうか、私は若いころからご年配の方には本当に可愛がられました。それは今でも私の
財産です。

基本的に、相手を思いやる心があれば「心の挨拶」が出来ます。 当然、心から感謝できる心も養われ
ました。
よく威張る上司、威張る経営者が居ますが大きな勘違いです。
怒ったりする行動もその通りです。 自分の思うようにいかないから怒る。まるでスーパーで駄々をこねる
子供と一緒です。

つまり、私がずっとずっと言い続けていることがこの「芸術」につながるんですね。
日舞でも、ある程度まで行けばそこそこ踊れるようにはなります。 しかし、芸能関係で言えば金の取れる
演者にはほど遠いのです。
作品の美しさはこの芸術が加わって初めて素晴らしい作品に仕上がるのです。
この芸術なら、日本人であれば本来誰でも持ち合わせているものです。
それはまさにまぎれもない「日本人の心」です。
外国人がどうして日本を評価し、これだけ多くの観光客が訪れるのか!? それは日本人の心がその
理由の殆どです。

日本舞踊はまず技術の習得からと思われがちですが、心はそう簡単に形成されるものではありません。
波島陽子の舞台が素晴らしい、美しいと評価して下さるのは技術は勿論のこと、彼女の心が芸術という
領域にすっぽりはまり、表現できない美しさになるんですね。

これは、身近にいる私が言うのではなく、波島からお稽古の機会を得、波島に触れることでそれが分かる
ようです。
日本の舞踊家の中でも数少ない財産であることは間違いないでしょう。

デンマークに行く子供たちにとって、波島から教えを乞えることこそ日本の文化・伝統の継承のように
思えます。
アメフトのトップを走っていた日大の出来事がそうであるように、間違った指導、間違った運営をしている
様々なジャンルのトップ集団の面々。
まして、自分が偉いなどど錯覚している部署の若者は気の毒でたまりませんね。

日本の文化は・・・とこの時期、伝統に触れながら「日本を紹介」している人が後を絶ちませんが、商売と
してやったら必ず衰退します。
オリンピックが終わって2~3年後、おそらく私の言ったことが当たっているはずです。

本来の日本の文化や伝統はとても控えめであるからです。
日本の伝統や文化ってそれほど素晴らしいものなんですよ。







 ヘルニアってな~に!! まったく

頑張れ
              ( 頑張れ! 頑張るぞ! )

暑い夏に負けずに頑張れ!!
誰よりも夏が大好きで若いころはどんな思いをしても海で楽しんだものだ。

お猿さんだって暑さに負けず頑張ってるじゃないか。

愚痴のように悔しい思いを強いられて2ケ月が過ぎた。
5月の初めに腰に違和感を感じ湿布を貼り始めて半月、どうも尋常じゃないと病院に行ったら「痛み止め」
をくれた。
病院に行けば安心と思っていたが痛みは増すばかり・・・
MR-Iで撮った写真にしっかりヘルニアが分かった。
昔ヘルニアに遭ったときは背中(腰)に激痛が走って腰が伸ばせない状態だったが初めてのブロック
注射でまもなく平常に戻った経験を持っていたが、今のそれは当時と全く違う。
両足の腰から足に向かってその側面(両足)が激痛でもんどり打つ状態・・・

それが6月初旬まで続く。いよいよ・・・と言うことでついにまたブロック注射。
腰掛けたりベットで横になっている時は座薬で痛みを抑えられるが立つと異常な激痛に泣かされる。
ヘルニアは治ると信じているから医師の処方箋を信じ、激痛時は座薬を鎮静剤としその痛みと闘って
いる。

結局6月は3度のブロック注射。 しかし全く効き目なし。
そして7月4日。 4度目のブロック注射。 今回の注射の痛かったこと。
打った薬が腰から腿、足の神経に瞬時に到達するのか今回は殺されるかと思う程のうねり声。
「麻酔を打ってから注射してよ・・・」という反面、「治るんなら医師(せんせい)何してもらってもいい・・・」
と絞り出したひと言。

いくらブロック注射をしても殆ど歩けない(泣)
静かに横たわっているときは座薬が効いているから痛みは感じないが、立って足を一歩前に出すとと
ても歩くなんて症状ではない。  こんな激痛は生まれて初めてだ。

私の母が生前パーキンソン病で苦しんでいた頃があった。
結局4年ほど自宅療養(ベット)で頑張っていたが、「痛い痛い・・・」の連続。
相当痛かったんだろうな! 相当きつかったんだろうな!
そう思ってももう母は居ない。   パーキンソンで命を落とすなど考えられなかった。
その痛みに対し「痛いね、頑張ろうね・・・」を言えたんだろうかと今更に思う。
外傷がある訳じゃないので余計その痛みが分からない。

自分は今、死にたいほどの激痛に襲われても内蔵が悪い訳ではないので何でも食べるし思考力も
人一倍しっかりしている。  だから余計困るんだな・・・
歩かなくなってというより歩けなくなってもう2ケ月が過ぎた。
誰よりも散歩が好きで誰よりも健康だと思っていた人間だから放つ言葉を失う。

どこへ行くにもタクシー送迎。 
今では電話でタクシー会社に電話すると、いきなり「岡部さんですね!」と交換が出る始末。
昨日はレントゲン撮影しながらのブロック注射。 これは「手術」に向けての撮影だという!!

去年の夏は「大腸がん」が見つかり(全て除去済)、この夏はヘルニアでかよ!!
夏生まれの男が2年続けて真夏の入院になるのだろうか!?

時期がくれば治ると思っていた。
だれよりもポジティブな男だがさすがに滅入ってしまう。
椅子に腰かけていたり、ベットで横になれば痛さもそれほど感じないので今のところ仕事には影響ない
が、もう3~4歩歩くと激痛が走る。 この痛さは説明の出来ない痛さ。 きっと母はそれ以上に苦しんだ
のかもしれないと思うと今更に申し訳なかったな・・・と。

特別症状があった訳じゃないがこんなことってあるんだな!

同級生が癌の通告を受け、現在毎日2時間歩いていると聞いた。
その同級生を慰めるように、「1日2時間か! 偉いね! 凄いね! とっても真似できない・・・」
そして、「頑張ってよ・・・」と言った翌々日くらいに初めて私に痛みが来たように思う。

まあ、最終的には手術で治るそうだが、身体にメスを入れたくないから今まで頑張ったのにね!

6月に梅雨が明けるという異常事態。 地球がおかしくなっているんじゃない?・・・の台詞どころでは
なくなってシャレにもならないや。

誰よりも健康が自慢だっただけに辛いものがある。
こういう時に限って生徒さんは増える、仕事が舞い込む!? よくしたもんだ。

ポジティブな人間のここが見せどころと言い聞かせ暑い夏に突入だ。

この写真を見て、「そうだ!頑張るぞ・・・・」と (笑)
それにしても2ケ月は長い!!   七夕の短冊は効き目があるんだろうか・・・!?





 童謡と日本舞踊

ふるさとB

昭和に生まれ昭和に育った私は今考えてみるととても幸せだったと言えますね。

雪国育ちの私は、お陰様で日本の四季をしっかり味わいながら育ちました。
まもなくやって来る夏。 この夏をひとつ取っても贅沢な宝物(かんきょう)に囲まれて生活して来たんだ
と言えるでしょう。
考えてみればホントに何も無かった時代です。 記憶にあるのはこの美しい光景ばかりでした。
殆ど家の中に居た記憶がないほど自然豊かな環境で育ちました。
自然と遊べるってことってこれ以上の贅沢はないですね!!  「贅沢か・・・!?」

今でも想像を絶するほどのあの豪雪の中で、長靴に入った雪を出し出し、そのうちに靴の中はびしょ
びしょ
その足はストーブかこたつで乾かす。 暖かくなった衣類や足から湯気が出る!
そしてかゆくなりしもやけになる(笑)

中学に上がると男として頼りにされて屋根に上がり雪下ろしの加勢をする。そんなことは当たり前。
大人たちは雪下ろしを手伝ってくれた近所の人と夕方は鍋を囲み、一杯飲みながら手拍子が始まる。
カラオケの無い時代だからそれぞれ大きな声で好きな歌を歌っていました。

笑い声が絶えないお茶の間は今思い出すと不思議な温かさがありました。

待ち焦がれた春は、雪国の人でないと味わえない喜びがありました。
雪がとけたら本当に春になるんですね! ふきのとうやつくしが顔を出し子屋根でのひなたぼっこは
たまらない春の時間でした。
夏には近くの小川を楽しむホタルの群れ、夏は蝶や蝉がいっぱいです。

周りは全て山に囲まれ、近くの山寺の焚火の煙が懐かしかったものです。

想像してみてください。
隣町に向かう汽車も温かく見えました。
汽車は歌になりますが、電車は歌にならない・・・・! 分りますか!?

私の家には、まだ小学校に上がる前からお手伝いさんがいて、日本の昔話はそのお姉ちゃんから
よく聞かされたことも覚えています。
だから、サンタクロースは本当にいると思って育ちました。

「夕焼け小焼け」「証城寺の狸ばやし」「叱られて」よく歌いました。
・・・・というより童謡で育ったと言っても過言ではありません。

山からの帰り道
大きな声で口ずさんだのが「カラスなぜ鳴くのカラスは山に・・・・」
きっと何百回と歌ったのが「てるてる坊主」「シャボン」「あの町この町」「証城寺の狸囃子」でしょうか!?

大人になってその意味が分かったのは「シャボン玉」でしたね。
        シャボン玉飛んだ
        屋根まで飛んだ
        屋根まで飛んで
        こわれて消えた

夭逝した作者の娘さんたちへの鎮魂歌だったんですね。 なんと切ない歌だったんでしょう!!

ただ、「叱られて」のように故郷の風景は歌詞そのものだったから子供ごごろながらにその情景は説明
の要らない風景ばかりでした。

「雨降り」「「雨降りお月さん」「てるてる坊主」「肩たたき」「あの町この町」「まりと殿さま」・・・・、これらが
中山晋平の作品であったこと等は中学に入学した頃だんだんと分かっていきました。

ふるさとD

野口雨情と中山晋平のコンビ作品の多さは長野県中野市にある「中山晋平記念館」で知りました。

この童謡はやさしいわらべ歌のようで実は日本の心そのものだったんですね。
おそらく、この記事はきっと以前にも綴ったような気がしますが、私は今「日本舞踊」という環境に触れ
ながら日本舞踊のその原点が言葉では言い表せない日本の原風景であったように思えてなりません。

東北弁が温かさを感じさせるように、何か血の中に東北が混じってないと表現できないようなそんな
絶妙でなんとも素晴らしい日本の心なんですね。

喜びも悲しみも、切なさや貧乏加減もそれぞれの生活の中に潜んでいるものなんでしょう。

昭和の中頃に台頭した演歌などもまさにその根底には童謡に似た日本の原風景が一世を風靡した
と言って過言でないように思います。
「おもてなし」なる日本の原点は「想う」「見つめる」「与える」日本人特有の優しさにあってそれが世界
に誇れる日本の心(うた)になったんだと思います。

サトウハチローの「たのしいひなまつり」などその典型だったように思います。

浅草では今年もまた7月9日・10日の2日間、「ほおずき市」が開催されます。
私は浅草に住んで初めてこのほおずき市を知りましたが、それは見事なまでに風情を感じます。
しかし、前と違うのは最近LE電球なる物が表れて屋台の夜の雰囲気ががらっと変わってしまったこと
です。
つまり、ほのぼのとした温かさがまったく感じられないんです。 ほっこりとした裸電球が昭和だったと
いうことです。
便利さはこんなところにも日本の素晴らしさを少しずつ奪っているように思いました。

妖精の里を創ることで山奥の民家に泊まったときのことです。
そいの家は茅葺き屋根で茶の間の囲炉裏を囲んで語り部の昔話を聞いたことがありました。
その雰囲気はまるで鶴の恩返しを思わせる光景。  感動した私がご主人にこう話しました。
「囲炉裏を囲んで昔話。茅葺きの家は日本の財産ですね、素晴らしい・・・・」と。
するとご主人はすかさずこう返してきました。  「そりゃ便利な都会からたまに来るからそう思うんだよ。
私らだってサッシの家に住みたいんだ!!」
言われてみれば「なるほど・・・」と思いますが、日本の原風景は失くしたくないですね!
だから町に地域振興事業(町興し)の依頼を受けたとき私は妖精の里建設を提案したんです。

昔は日本のどこここにも童謡が生まれる素養があたんですね。
言い換えれば、風景も生活も人間の心そのものだったように思います。

タイトルに「童謡と日本舞踊」と題しましたが、美しい舞を追求する波島を見ながら思えることは、日本
舞踊もまさにこの日本の原風景(にほんのこころ)の追求にあるのではないかと・・・・。
日本古謡を代表する「さくらさくら」、この中に「野山も里も・・・」という歌詞が出て来ます。  教室では
80余名の生徒さんが通いますが、5歳~70歳くらいの生徒さん全員が必ずお稽古する課題曲が
このさくらさくらです。  ご年配の方が見事にこの踊りを舞えるのは昭和の原風景(こころ)が見える
からなんでしょうね。

日本舞踊の三要素、「踊り」「舞い」「振り」があります。 この振りに波島はこだわりをもって日本の心
を表現しようとしているんです。
日本舞踊というと「娘道成寺」や「祇園小唄」等々を想像しがちですが、「かごめかごめ」や「叱られて」
を舞ったらそれは素晴らしい舞いになります。  つまり、日本舞踊は日本の心そのものであり、童謡
の世界そのものと言って良いでしょうね。

訪れる外国人観光客の皆さんに、「日本は何が魅力なんですか!?」と訊ねると必ず日本人の温かい
心と答えます。

素晴らしい日本舞踊を失くさないためにも師匠、波島陽子には是非頑張って欲しいと願っています。

勿論、外国人にも心の素晴らしさは本当に沢山あります。
しかし、どこか違うのは日本の風土や日本人らしい人の心(やさしさ)があって歌にしても踊りにしても
日本人の心に伝わる素晴らしさとなって多くの人々を魅了しているように思えてならないのです。

平成の初めに、私は音楽家の山本直純先生にお願いし、長野県中野市の教育委員会の依頼で「中山
晋平生誕100年祭」の舞台を演出したことがありました。
それはあの「男はつらいよ」の寅さんの世界が大好きだったから、寅さんの主題歌を手掛けた直純先生
にお願いしたのです。

この企画が舞い込んだのも、童謡を愛し、歌い続けた私へのご褒美だったのかも知れませんね。

日本の心を大切にすることで、ほんの少しでも日本の若者たちにその心の素晴らしさを伝えられたらと
これからもこだわりをもって童謡を口ずさんでいきたいですね。

みなさんも是非童謡を口ずさんでみてください。 優しくなれるから不思議です。
日本の原風景に出会って感動や喜びを感じない日本人はいないはずです。 それはまぎれもなく素晴ら
しい日本人だからです。
私は、仕事をするときに必ずと言って良いほどフルートで演奏されている歌詞のない童謡を聞きながら
仕事をしています。 なんと表現したら良いのか分からない心の故郷に身を置き何故か豊かな心根と
ともに仕事は捗ります。

同じ心根で作品を創り続ける波島陽子の日本舞踊(新舞踊)はきっと多くの人の心を捉えて離さない
と確信をもって言えるのはそこですね!!


プロフィール

岡部俊雄

管理人 : 岡部俊雄
チーフ・プロデューサー
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