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 赤穂浪士の討ち入り

元禄14年春。播州赤穂藩浅野家家老大石内蔵助は、江戸からの思いもよらぬ知らせに言葉を失った。
この季節になると決まって「忠臣蔵」の映画が上映されたものだ。源義経にしろ赤穂の義士にしろ日本人はこうした判官びいきものに酔ってしまう傾向がある。どこかで着色された部分も多いのだろうとは思っても忠臣蔵ほど様々な角度から描ける作品は少ないだろう。
若いみなさんの為に少し「忠臣蔵(ちゅうしんぐら)」について触れてみたいと思う。
先の藩主である浅野内匠頭(たくみのかみ)が殿中松の廊下(江戸城)で高家筆頭・吉良上野介(きらこうずけのすけ)に斬りかかったというのが内蔵助への思いもよらぬ知らせだったのだ。
内匠頭は朝廷からの使者を接待する役目「勅使饗応役(おもてなし役)」を務めることになったが、諸式指南役の上野介からことごとく意地悪い仕打ちを受け、その屈辱に耐えかねての刃傷(にんじょう)だった。
これは、今で言うところの賄賂(わいろ)を届けない内匠頭に意地悪をしたということだ。これが想像を絶する意地悪だったところに問題があった。
さらに、時を経ずして届いた続報に、内蔵助は愕然と息をのむ。なんと幕府は、殿中における刃傷沙汰を不届き千万として即日切腹を命じ、かつ赤穂五万三千石は取り潰しという裁定を下した。対する吉良には、一切のおとがめなし。喧嘩両成敗が慣習である当時、あまりにも不公平すぎる裁定だった。
訪れた赤穂の城の明け渡し。様々な議論のあげく内蔵助のひとことで、抗議のための籠城、殉死をを遂げることと決まった。ところが、約束の日、城に集まったのはわずか56名。300人以上いた家臣の多くは離散し、中には卑怯にも姿をくらます者も。やはり死ぬのは恐かったのだろう!しかし、切腹と言った内蔵助の心には並々ならぬ決意が隠されていたのだ。
切腹を覚悟で集まった家臣に、内蔵助はこう言った。「この内蔵助の望みはただひとつ。怨敵・吉良上野介の首でござる。本懐を遂げるまで、この内蔵助を信じ、おのおの方の命をお預け願いたい」。
こうして主君の切腹からひと月あまりで赤穂城は明け渡され、浅野家は断絶した。
最終的には50余人になった義士たちによって吉良上野介の首をはねるまでに壮絶な準備と生活が始まる。
仇討はきっとあると怯える上野介と最終的な四十七士のそれぞれのドラマはあまりにも判官びいきの日本人にとっては心惹かれずにはいられない史実となったのです。
本懐を果たすべくその日、吉良邸(東京都墨田区界隈)周辺はあの雪景色だった。元禄十五年十二月十四日。待ちに待ったその日(討ち入り)が今日なのだ。私も何度か泉岳寺を訪れたが、生れて初めて高輪泉岳寺にその当日出かけたいと思っている。

 人名、会社名等(著名人は除く)は仮名ですが内容は全てノンフィクションです。
 【俊介の部屋】は平成21年6月4日にスタートしました。(毎日掲載しています)
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