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  大奥を学ぼう 

・ 徳川になって有名なのが「大奥」であることは言うまでもない。大奥という
 とその愛憎劇が数多く登場しますが、NHK大河ドラマ「篤姫」の視聴率が異例
 の高い数字を示したように、国民の多くはやはりこうした人間模様に興味を示
 し感動に浸っていたようです。 
  大奥の姿が一般には共通する訳もありませんが、女性にとっての「結婚の在
 り方」を考えさせられるもののひとつではあるでしょう。
・ ここで私が調べた大奥についてお話しましょう。
「大奥は将軍家の子孫を絶やさないことを目的に1607(慶長12年)に徳川秀忠
 によって作られ1618年(元和4年)に発令された「大奥法度」によって、一般
 の社会から完全に隔離された。
  1人の将軍に500人から1000人もの女が仕えるという世界でも類をみない
 巨大なハーレムであった大奥。 そこに入る女は中で起こったことを一切他言
 しないという血判を義務づけられていたため今でもその実態は秘密のベールに
 包まれている部分が多いとか。
  女中たちは完全な住み込み制で将軍に仕え、将軍や御台所にお目通りを許さ
 れていた旗本や御家人の娘から成る御目見以上の女中たちは親の死に目以外に
 は外に出ることを許されない一生奉公だった。 特に将軍の寵愛を受けた者は
 死ぬまで大奥を出ることを許されなかったばかりでなく、将軍亡き後は桜田の
 御用屋敷に移り住み、位牌をいただきただただ将軍の冥福を祈るのみという生
 活に入ったのだった。
  だが百姓や町人の娘で構成された御目見以下の女中達には「宿下がり」とい
 う外泊許可が年季に合わせて与えられ、結婚することも出来た。
 宿下がりの日数は奉公3年目で6日、6年目に12日、9年目に16日だった。
 御目見以下の女中の多くは将軍のお手付きになるなどという野望を抱いて大奥
 入りしたわけではなく、単なる花嫁修業や「はく」をつけるために奉公に上が
 ったのだという。 当時大奥で勤め上げたことは一種のステータスとされ、大
 奥経験者には縁談が殺到したという話も残っている。 」
・ 時代は変わっても、政略結婚で嫁ぐ人は勿論現在でもいるでしょう。 
 前述の家の子孫を残す目的、会社繁栄継続を目的とした結婚という形は残って
 いる。 小説家山崎豊子の作品に「華麗なる一族」というのがあるが、一般人
 には想像を絶する結婚という形を見ることができる。
  憎悪や悲惨な人間模様を描きながらも、万俵鉄兵と元通産大臣大川一郎の長
 女早苗との素晴らしい夫婦愛も学べる。 
  13代将軍家定に嫁いだ篤姫の夫婦愛も見逃せない。 大奥を変えた篤姫の人
 生も女性の生き方として男女問わず学べたはずである。

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岡部俊雄

管理人 : 岡部俊雄
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