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 好きが高じて・・・

お仲 A-1
(会社の慰安旅行での余興のひとコマ)

これは私が24才のときの懐かしい1枚です。名古屋から伊豆半島に行ったときのお宝ですね(笑)
バス2台で稲取温泉「銀水荘」に宿泊したときですが、なんとも若いですね~!スマートですね~!(大笑)

昔は職場毎に余興を準備し、宴会場で余興コンクールをやったものです。現在は職場で旅行や飲み会などというと仕事以外は大問題が起きるようですが・・・、嫌な世の中になりました。
当時大阪に「小林芳宏」君という名子役が居まして、ひょんなことから応援をすることになり、彼とは私が名古屋時代何度も行き来したものです。
芳宏君は赤穂浪士の矢頭右衛門七を演じ、母役三益愛子さんとの絡みで名演技を見せ将来の時代劇スターを約束されるほど美少年でした。18才で切腹という大役をこなしたんですよ。のちにNHK朝の連続テレビ小説「伊豆の踊子」にも私役に大抜擢。
この出演の少し前にこのバス旅行に芳宏君も同行した訳です。職場は若い女子社員が殆どでしたのでバスの中、ホテルでは大変だったことを覚えています。

そんな訳で、我がチームは芳宏君を一心太助に、その恋女房を私が・・・・!!
写真は踊りではありません。一心太助のお芝居のひとコマです。ヤクザも殆どが女性という前代未聞の舞台。
もう殆どアドリブというドリフターズ顔負けのコント劇。今考えると子供の頃から芸事が好きだったのかも知れませんね!!
勿論優勝しました。見せてあげたかったな~(笑)

先ほど慰安旅行と言いましたが、衣装・かつら等々名古屋のカツラ屋さんや衣装屋から一式揃えて行くという本格的なかくし芸です。
本当に懐かしい・・・・

でも、もう二度と自分が出演ということは考えなかったですね。 やはり、演出したり構成したりが向いているんだと思うから。
私は当時のこうしたチームプレーを通じ、職場の雰囲気・チームワークがどれほど大切かを身をもって感じて来ました。

名古屋名産という3本の指に入るお土産品の製造直売の会社で全国の誰もが知らない人は居ない有名店。目標は、「日本一の販売員になろう」・・・と掲げ、あらゆることをやりました。その為に日本話し方センターに通い、徳川夢声さんに教えを乞い、当時ダイエー創始者中内功氏のセミナーによく通ったものです。
父の交通事故死という出来事が無かったらきっとこの会社に骨を埋める覚悟だったんです。ここから私の運命の歯車が本格的に動き出したんです。故郷に帰ってから独立し制作会社を設立したのも好きが高じたのかも知れません。

故郷では最初スーパーの店長を任され、またも慰安旅行は「銀水荘」でした。当時温泉ホテルとして銀水荘の評判は素晴らしかったからですが、それからは社員旅行も段々影も薄くなる時代に突入しましたね。それからです、個人でいろんな温泉を訪ねるようになったのは。
前にもお話ししたと思いますが、私にとって生涯忘れられない出会いが訪れます。「男はつらいよ」の作曲家、「山本直純」先生との出会いです。私にそうした下地が無ければもしかしたら先生との交流は無かったかもしれません。
一流の音楽家はまるで少年のようでした。お互い裸の付き合いに温泉はピッタリでしたね。

最終的に上京し再度制作会社を設立し現在に至っている訳です。

梅川A
(第一回波扇会で梅川を踊る)

淺香光代先生がご縁で現在の波島陽子と出会う訳ですが、先生に口説かれ結局5~6回日本舞踊を習いに浅草に出かけたでしょうか!?しかし、指導は淺香先生でなく当時の森陽子さんでした。淺香先生はその頃から少しずつ体調が悪くなっていました。
ご縁というのは凄いことでしたね。それから数年後、淺香事務所を退職した彼女と組み日本舞踊(新舞踊)を全国に広めたいとする心根に打たれ振付作品(DVD)を通じ日舞の普及にと会社を興した訳です。
ところが、不思議なことにまだ教室も持たないのに一人二人と日本舞踊を習いたいとする生徒さんが増え、会社を興して3年で専用お稽古場を雷門の最高の場所に開校するという快挙。
師匠の名前も「森陽子」から私が「波島陽子」と命名し、本格的な日本舞踊教室の運営が始まった訳です。

写真はなんとまたまた私です(笑) お芝居調の新舞踊、「梅川」の忠兵衛に挑戦。芝居心なら・・・と本格的に臨みましたが結局これが私の舞台最後とし出演は封印、プロデュース業に専念しています。
波島は常々「淺香光代先生は素晴らしい・・・」と高い評価ですが、つまり長谷川伸先生のような作品を演じさせたら淺香先生の右に出る者はいない・・・と評価。私も何作か舞台を観ましたが、本当に昭和最後の大舞台女優でしたね。テレビででも何かの機会に淺香先生の舞台を放映してくれないだろうか・・・。
淺香先生の下、こうした環境で芝居心を学べた波島陽子は本当に幸運だったと思います。特に新舞踊の振付けに見る波島陽子の世界は絶品です。直伝の芝居心と波島陽子の持つ感性。その波島の指導でお弟子さんと共演した当時の「梅川」に多くの観客の涙を誘う・・・、そして割れんばかりの大拍手は今でも脳裏を離れません。本当は癖になるところですが、本来私は演出家なんだと思います。

名古屋を出てから再度上京するまでの期間は、まさに波島陽子をサポートするために神から与えられた私の修行期間だったようです。

こうして第一回目の発表会(波扇会)は大盛況でした。これが、波島陽子率いる「波扇会」の評判となり現在に至っている訳です。

現在は、「岡部塾」と称し私はプロを夢見る若者の指導を行っていますが、子供の頃「時代劇は東映」といった封切館を親戚が営んでいた環境からどうも私が出来上がったようです。
プロの時代劇(映画)の監督と4年ほど前にお食事をする機会がありましたが、私の環境はその監督をも唸らすものでびっくりされていました。今は時代劇を演出できる監督は本当に少なくなりました。時代の空気のようなものが、PC等で揉まれた環境とは違いすぎますね。

コロナ時間が無かったらこの写真にもう一度目を通すことは無かったかも知れません。 一流のCM会社から演技指導が舞い込む昨今ですが、好きが高じてとうとうプロとして活躍できるようになりました。
これからも、本物を追求する波島陽子を支援しながら、日本の大切な文化・伝統を一人でも多くの若者に伝えてゆきたい。心からそう願っているところです。









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岡部俊雄

管理人 : 岡部俊雄
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